ボストン氷や天津氷に対抗して誕生した函館氷

幕末開港時から天然氷と取り組んだ日本人が中川嘉兵衛です。横浜開港を知った中川嘉兵衛は異人相手の商売を志し、横浜に移り住み、さまざまな西洋文化に邂逅します。

画像: 横浜開港資料館発行 横浜もののはじめ考第3版

横浜開港資料館発行 横浜もののはじめ考第3版

42歳の時、横浜開港のニュースを聞き、国際化の時代の到来を察した嘉兵衛は、横浜に移住。初代英国公使・オールコックのもとでコック見習いとして働くうちに、西洋の食文化の普及、流行を予感し、牛肉と牛乳の販売店を開業しました。
 牛肉と牛乳を取り扱う上で、腐敗防止や品質保持は課題でした。嘉兵衛はヘボン式ローマ字の創設者で医師のヘボン博士に会い、食品衛生における氷の有益性を教示されます。こうして、氷のニーズが将来的に高まることを予想した嘉兵衛は、製氷の事業化を決意しました。

ボストン氷や天津氷に対抗しようと、1864年に居留地での「氷売り込み」の許可をもらい天然氷の販売を試みます。富士山麓や多摩地区などから採氷して、馬などで運んだがほとんどが溶けてしまいます。その後、良質な氷を求め諏訪湖、日光、釜石と北上するがことごとく輸送に失敗。横浜元町に新たな氷室「横浜氷会社」を設立し、牛肉販売業の権利を譲り、全財産をつぎ込み、アメリカから技術者を招聘。そして最後に辿り着いたのが函館の五稜郭でした。五稜郭の製氷に適した良好な水質と船便の利便性により、1869年、ついに500トンもの天然氷の切り出しと、横浜への輸送・販売に成功しました。そしてこの年に、横浜馬車道で町田房造が日本人で初めて氷水店(アイスクリームのなもの)を開業します。ついに日本人による氷ビジネスが開花したのです。生産量は1870年に600トン、1873年に1200トンと増加。「函館氷」と銘打ち、1871年に函館の豊川町に3500トン収蔵可能な貯氷庫を、さらに1873年に日本橋の箱崎町に大型氷室を建設。事業を軌道に乗せ、良質な氷は中国、韓国、シンガポール、インドなどへの輸出されていきます。ちなみに中川嘉兵衛は米国人医師シモンズの傭人だった1866年ごろ、横浜で搾乳業を始め、その後に牛肉販売店も始めます。1867年にはまだ牛肉販売が確立していない江戸(東京)、白金村に屠場と高輪に牛肉販売店を開き、東京に牛肉販売の先駆けをつくった人物でもあります。

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