▼元プロサッカー選手の李忠成さん
世界150カ国以上で親しまれる「ギネスビール(以下、ギネス)」と、世界中のサッカーファンを魅了するプレミアリーグ。両方ともグローバルブランドであり、世界各国に広がる多様なコミュニティと深く結びついているという共通点があります。
そんななか、2024年6月にはギネスとプレミアリーグがグローバルパートナーシップを締結しました。ギネスが掲げる「the beautiful game & the beautiful pint」(至高の試合と至高の一杯)が生み出す新たなフットボールカルチャーの醸成と、世界中の熱狂的なプレミアリーグファンとのつながりを創出していく取り組みを行っていきます。
2025年2月1日には元サッカー日本代表 李忠成さんを招いたトークイベント &プレミアリーグ パブリックビューイングが、HUB新宿区役所通り店にて開催されました。
今回は、世界最高峰のプロサッカーリーグ「プレミアリーグ」の公式ビールパートナーである「ギネスビール」、日本でプレミアリーグ全試合を独占放映している「U-NEXT」、そして全国55店舗でプレミアリーグの試合を放映している「英国風パブHUB」がコラボレーションしたスペシャルイベントの模様をレポートします。
トークセッションの冒頭ではイベント開催を祝し、李さんから「Cheers!(乾杯)」の挨拶で幕を開けました。
2012年にイングランド・サウサンプトンFC に所属し、チャンピオンシップからプレミアリーグへ昇格後は、海外の大舞台でプレーすることになった李さん。世界中のトッププレイヤーがプレミアリーグを目指してクラブチームに結集することもあって、「サッカーのレベルが非常に高かった」と当時を振り返ります。
「例えば3年契約を結んでいても、半年間活躍できなければ『もうこの選手はいらない』と判断され、新たな選手の獲得に乗り出すという厳しい環境です。本当に選手の入れ替わりがとても激しいですが、そのぶんリーグ全体のレベルも高くなります。全体的に大柄な選手も多く、フィジカル面でもタフなリーグだと感じました」(李さん、以下同)
加えて、プレミアリーグの最大の特徴は“スピード”だと李さんは続けます。
「僕はよくバスケットボールに例えますが、ゴールからゴールまでの展開が非常に速いんですよ。例えばスペインのリーグでは、ボールを回しながらゆっくりとビルドアップしていきますが、プレミアリーグでは激しい攻防が繰り広げられます。
自陣でボールを持っていたかと思えば、一瞬で相手陣地に運ばれ、シュートを打たれる。このスピード感がプレミアリーグの大きな魅力ですね」
さらに、給与面でも圧倒的な違いがあるといいます。李さんがプレミアリーグに在籍していた頃の年俸は約2億円だったそうですが、これでも平均より低い方だったとか。
現在は物価や市場価値の上昇もあり、最低でも平均で3億円以上、なかには5億円や10億円以上の年俸を稼ぐ選手もいるなど、「プレミアリーグは桁違いの世界」だと李さんは強調しました。
また、プレミアリーグに昇格したことで「移動環境にも大きな変化があった」と李さんは話しました。
「チャンピオンシップ時代、僕たちはバスでの長距離移動が当たり前でした。例えばサウサンプトンからマンチェスターまで試合に行くのに8時間かけてバスで移動していました。それがプレミアリーグに昇格すると、移動手段が一気にプライベートジェットに変わりました。それほど選手ファーストの環境が整っているんです。
バスも設備が全く違います。Wi-Fiが完備され、バスの後部にはキッチンがあり、シェフがラザニアやスパゲッティを作ってくれたり、フルーツを用意してくれたりするんですよ。まるで“移動する家”のような快適さでした」
そんななか、「あり得ない光景を目の当たりにした出来事」を印象深いエピソードとして語ってくれました。
「プレミアリーグでは試合の前日にチーム全員でホテルに泊まり、会場で食事を摂るのですが、隣の会場に行くと、アタッシュケースを持った時計商が選手たちに高級時計を販売しているんです。
しかも、選手たちは普通に300万~500万円の時計をその場で購入していて、本当にJリーグでは考えられない光景だったので驚きました」
世界最高峰と呼ばれるプレミアリーグの大きな特徴の一つに、地域との深いつながりがあります。日本のJリーグはまだ30年ほどの歴史ですが、イングランドのサッカー文化は150年以上の歴史があり、例えばノッティンガム・フォレストは140年以上の伝統を持つクラブです。
イングランドでは100年前からサッカーが町の唯一のエンターテイメントだった時代がありました。当時は映画館もなく、サーカスも滅多に来ないなかで、地元のクラブにスーパースターが来てプレーするのは、まるでサーカスが町にやってくるような一大イベントでした。
そうした文化が今でも根付いていて、「シーズンチケットは簡単に手に入らない」と李さんは教えてくれました。
祖父が持っていたシーズンチケットを父に譲り、その父が息子へと渡していく。
代々受け継がれるものだからこそ、新規でシーズンチケットを入手するのは非常に難しいそうです。
「プレミアリーグの選手たちは地域密着の意識が非常に高く、病院や施設を訪問することが日常的にあります。なので街を歩いていると、試合で活躍した翌日は『お前は最高だ!』と声をかけられることも多いですし、逆に結果が出なければ街を歩くのも大変になります。それほど、プレミアリーグのサポーターと選手の距離は近いんですよ」
プレミアリーグは観戦していても非常に面白く、「サポーターの真剣さや熱意は本当にすごく、実際に生で観ると選手同士のぶつかる音やスタジアムの熱気などが伝わってくるのでぜひ現地で体験してほしい」と李さんはコメントしました。
トークセッション後には、李さんに個別インタビューを実施しました。
▼李忠成さんのインスタグラムより
www.instagram.com── 幼少期や学生時代の思い出やプロサッカー選手を志すようになったきっかけを教えてください。
李:小学校5年生の時に「清水カップ」という大きな大会があって、その決勝戦を観たんです。そのとき、清水FCの5・6年生が試合をしていたんですが、あまりにもレベルが高すぎて。もうサッカーをやめようかなと思ったほどでした。
でもそこからまた頑張るようになりました。転機といえば、小学校6年生のときに横河電機のジュニアユースに“飛び級”で入ったことですね。今でこそ久保建英選手のように飛び級する選手もいますが、当時は今ほど飛び級することが多くなかったので、指導者の方々の理解があったからこそ実現したことだと思っています。
そうやって中学生のレベルに触れながら成長できたのが、自分にとっての大きなターニングポイントだったと思います。
── そこからプロを目指すようになり、約20年間にわたってプロサッカー選手を続けてこられたわけですが、やはり印象的なのはアジアカップの“奇跡の一撃”です。あのボレーシュートで「何か変わった」という実感はありましたか?
李:僕自身は特に変わらなかったんですけど、周りの反応は大きく変わりました。正直なところ、僕はその試合の後も「次の代表に呼ばれるために結果を出さなきゃいけないという気持ちしかありませんでした。
試合で結果を出して、次につなげることが大事だと思っていました。だから、世間的には“日本のヒーロー”みたいに言われましたが、自分としてはそんな感覚はなかったですね。
── ボレーシュート自体は狙って打ったものだったんですか?
李:いや、サッカーは狙って決められるものじゃないんですね。ただ、いろんな選択肢がある中で、あのシュートが最も確率が高いと思ったので打ちました。内田篤人と長友佑都は一緒に北京五輪を戦ったメンバーなので、彼らのセンタリングの質は理解していましたし、どこにボールが来るか、どう動けばいいかが自然と分かっていたんです。
── あのゴールの後、周囲の反応が大きく変わったということですが、具体的にどんなことがありましたか?
李:まず親戚が急に500人くらい増えましたね(笑)。“親戚です”っていう人が次々と出てきて、「え、誰?」という感じでしたよ。アジアカップ後も国内外のクラブでプレーし、20年間のプロサッカー生活を振り返ると、サッカー選手は「夢の職業」だとあらためて思いますね。
やりたいことをやれて、稼ぎたいだけ稼げて、住みたいところに住める。
これ以上の夢の仕事はないかもしれません。ただ引退してみて思うのは、あの高いレベルでもうプレーできないことがすごく悲しいですね。いま日本代表に入れたとしても、もうそのレベルでは戦えない。それが一番寂しいことだと感じています。
── 現在は次世代の育成にも力を入れられていますよね。
李:今は「点取り屋-TENTORIYA」というプロジェクトで、ストライカーの育成に特化した活動をしています。僕が一番教えられるのが“点の取り方”で、ストライカーとしての技術なら、誰よりも伝えられる自信があります。今、多くの元選手が指導者になりますけど、50歳になってからストライカーのことを教えるより、まだプレーができる今だからこそ伝えられることがあると思うんです。
YouTubeやテレビで見るのではなく、実際に目の前で本物のプレーを体験してほしいんですよ。僕が小学生の頃に浜本さんのサッカースクールを見たとき、「こんなに大きくて強い選手がいるのか」と衝撃を受けました。そういう“本物の物差し”を知ることで、子どもたちが夢を持ちやすくなると考えています。
── 実際に間近でトップレベルのプレーを見たら、「プロってこんなにすごいんだ!」と実感できますもんね。今日は貴重なお話をありがとうございました!